芸は身を助ける


パトナへ車で出張中、ドライバーのBが急にゆっくり止まって「先生。ハンドルが動かないです」という。ハンドルを調べるとハンドルは動くがタイヤが動かない。要はハンドルとタイヤをつなぐ何かが壊れているという状態であった。JAFなんか無い。ガソリンスタンドも近くには無い。いや真ん前がガソリンスタンドでもインドのガソリンスタンドはガソリンを売るだけで修理の出来る人はいない。これは困った。あたりは霧が出ておりここがどこか分からない。いやむしろ霧が晴れて野次馬が集まったら治安はあまりいいところでないので危ない。さてどうする。

私は自動車が好きで例えばミッションの積み替えレベルなら一人で出来る知識と経験があった。何せインドに赴任する時、この技術を日本寺に活かそうかと簡単な自動車工具をインドに持って来たぐらいである。

すぐさま車の下に潜る。ハンドルとタイヤをつなぐポイントのナットが無いことを見つけた。簡単な問題である。Bにどこからハンドルが聞かなくなったかを聞きその辺りにナットが落ちていないか探す。発見!車載の工具でナットを閉める。これでとりあえず問題ない。仏教とは全く関係ないけれどあの技術が無かったら間違いなく大変なことになっていた。

人生何が繋がるか分からない。

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ナットを閉める。今見るとタイヤ交換ジャッキだけで車の下に入っている。思い出してちょっとぞっとした。


B.R.アンベードカル


インドで一般の仏教寺院や門前土産物屋で大橋巨泉のようなおじさんの写真や像を見ることがある。B.R.アンベードカル氏。

仏教徒は1%くらいといわれている。そしてここには2つの大きな流れがある。一つは少数ではあるがベンガル地方からビルマ国境付近を中心とした伝統的な上座部仏教。そしてインド独立の際、法務大臣としてインド法律草案作成者である政治家B.R.アンベードカル氏が行ったカースト制度の不可触民解放運動として仏教に改宗したことに始まる「新仏教運動」※1と呼ばれる2つの流れである。「新仏教運動」は先に紹介した佐々井秀嶺師に引き継がれ非常に大きな流れとなっている。このアンベードカル氏は独立を支えた方でもあるので宗教を問わずして人気があるが、特にインド仏教徒には菩薩として偶像崇拝されるほど人気がある。(チベット仏教は除く)

98年2月末インドのシリコンバレー・バンガロールに日本寺にパソコン導入のため視察出張の命を受けた。休暇もかねており約3週間旅行。ムンバイ・バンガロール・ケラーラを周る予定を組んだ。アンベードカル氏はムンバイに住まいをおいていた、出発前ブッダガヤで知り合ったムンバイのお坊さんをたよりにアンベードカル氏旧跡巡りをお願いしていた。指定されたアンベードカル・ガンジという場所の大学に行くとお坊さんは留守だったがTV関係者と大学の先生がお世話してくれた。

いきなり連れて行ってくれたのはアンベードカルの家。しかもいきなりの直接訪問。ノックして若い女性が出てお孫さんかお手伝いさんか分からないが「急に来られても無理!」と門前払い。当然。その後有名なアンベードカル著作「ブッダとそのダンマ」の印刷工場へ。歴史を感じる印刷所でいまは普通のノートとかを印刷しているとか。そこら中にあの本を作ったアルファベットの印刷用活字が転がる。

山際素男著「ブッダとそのダンマ」で彼のことを知ることが出来る。

※1「新仏教運動」一般にこの表現をしているが仏教徒に新しいも古いも無い。特に「新仏教徒」と彼らをくくることは適切な言葉では無い。「仏教復興運動」ともいう。

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アンベードカル宅

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インドの街角にあるアンベードカル像。ちょっとした町なら見つけることができる。

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印刷工場。作業場にも彼の写真が掲げられている。

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陶器市で見つけたアンベードカル像。 インド仏教徒は仏像の横に置くことが多い。

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アンベードカルグッズ

 


インドの交通事故


数年前ニューデリー郊外を団体バスで移動中、急ブレーキと共に一緒に旅行している女性の悲鳴が聞こえた。私は左側席であったが右側席の様子が尋常じゃない。なんだなんだと見に行くと事故で人が倒れてたという。バスはそのまま進んだので私はその現場は見れなかったが、お父さんらしい人の下あごを残し頭部が飛ばされて無い遺体を中心に子供を含む家族らしい数人が身動きせず倒れていたという。インドは横断歩道なんてないも同然だから道を渡ろうとした家族がトラックかなにかにはねられたのだろう。加害車らしいは止まっていなかったそうだ。かわいそうに。

インドは交通事故が多い。駐在中何度も事故現場や事故の話もよく聞いた。インドで死亡人身事故が起こると警察が来る前にその現場でドライバーはリンチにあうという。だからドライバーは事故後すぐにその場を逃げるそうだ。現場で車が動かなくなても走って逃げるという。車から犯人は割れ後々捕まるだろうが、その場にいたら殺されかもしれない。

カルカッタでタクシーで移動中、10歳くらいの子供の自転車がふらふらと私たちのタクシーにぶつかって倒れた。けがはなかったが日本なら確実に人身事故である。ちょうど交差点で警官がそばで見ていた。警官が近づいて来てドライバーに注意すると思いきや、なんと長い警棒で子供をたたき怒り始めた。どいうことかガイド確認すると子供の自転車の運転が下手なことを警官が注意したという。

またカルカッタで信号待ちで後ろの車がトンと軽くぶつかって来た。一応、追突されたわけであるが、ドライバーはバックミラーで後ろのドライバーをチラッとにらむだけであとはお互い全く問題なし・・。逆にこちらが信号待ちで前の車に当たって止まったこともあった。もちろん問題なし。まあそのために前後にバンパーがあるのだが。

車社会もこれほどインドは違う。

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事故にあったトラック。長距離を移動すると結構な確率で見れる。

 

 


ダブラ


日本寺駐在中に仏教関係以外で唯一本格的に習ったのがインドの太鼓「タブラ」。インド音楽といえばシタールかタブラかというメジャーな楽器である。日本寺生活も1年ほどが経ち何かインドっぽいものを身につけようかと考えたのがこの「タブラ」。シタールはかさばるからタブラならばコンパクトで簡単そうというのがこれを選んだ動機。それまでドラム関係は触ったことすらなかったが三線はかじっていたので何とかなると思った。

スリランカ寺の子供会の発表会の補佐で、タブラをたたいていたアジャイ・クマールさんに初めて会った。日本寺従業員に仲介に入ってもらい先生になっていただいた。月謝2000RS土日と忙しい時期以外ほぼ毎日。日本寺の休み時間に1時間教えてもらうことになった。タブラはバーヤンという低音を出す太鼓とタブラという高音を出す太鼓を両手でたたきその音のミックスによって音楽となる。習い始めたら音符ではなく太鼓のたたく場所によって「Dha Dhin Dhin Dha  Dha Dhin Dhin Dha・・・」という三線の工工四のような言葉が音符であった。しかし簡単どころか始めまったく音が出せない。特にバーヤンの低音のブーンという手の平で滑らすように音を出すことが数ヶ月できなかった。またパタパタと高速で指ではたくタブラ独特の音は最後まで上手にたたけなかった。途中何度もやめようかとも思ったが帰国まで7ヶ月間習った。とはいえこの先生との縁により日本寺で2回のインドクラシックコンサートを開くことが出来、なによりもインドクラシックを聞き流すのではなく内容や構成、どこがうまい技なのかが分かるようになったのがうれしかった。帰国して高知県内のシタールをする方と知り合い八十八カ所札所の高知竹林寺さんのイベントや県文化ホールなどで数回コンサートで共演したりした。

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アジャイ・クマール氏。日本寺の国際仏教徒結集という学会の出し物の一つにて

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初めての外国人弟子ということもあり、約一時間みっちり仕込まれる

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アジャイ氏の家にて横は兄ビジャイ・クマール氏彼はアジャイ氏よりタブラーがうまい。アジャイ氏休みの時はたまに習った。

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ブッダガヤにある彼の教室兼

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兄ビジャイ・クマール氏のセッション

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98年大晦日に開かれた日本寺インドクラシックコンサート。

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たくさんのお客さんが来てくれた。

 

 


国境マーケット


タイ、カンボジア国境アヤンプラテートのロンクルア国境市場にいった。かつてカンボジア内戦のとき大量の難民が押し寄せた地である。現在は東南アジア最大のマーケットになっているが売っているのがすごい。一番目をひくのは古着の山。話によると世界中から集まる救援物資の横流しとのこと。このような店が数百はある。英語圏、欧州らしいものも多いが韓国語がプリントされた作業着や服が目立つ。中古チマチョゴリまで販売している店まである。それらを補修したものをタイの業者が買って行く。かつて数十万円のビンテージジーンズが中古衣料に含まれており二束三文で売られていた時代もあったとか。あとは新品の衣服、バッグや靴など衣料品を中心にどういうルートで入るか分からないがバンコクの半額以下。あまりにも広いので原付バイクを借りて廻るがそれでも広すぎる。5時間ほぼ休みなしで見たが廻りきれたかどうか分からない。マーケットを外れて周辺に足をのばした。舗装が完全じゃない赤土の道を進むと靴の山が見えた。バラックのような作業場が数十ありその一軒一軒に大量の中古靴が山のように積まれ、それを一足一足手作業で洗っている人がそこら中にいる。靴を石けんで洗うときの独特なにおいが立ちこめる。ここは私のような観光客が来る場所じゃない。すぐさま転進しマーケットの方に戻った。ブログ用に写真を撮ろうと思ったが撮れる雰囲気ではなかった。帰国後調べるとカンボジアから国境を超えて働いている人々であった。おそらく格安で働かされているのであろう。その他マーケットではここで書くことを憚れる状況で働いている方もいた。

マーケットでランプ屋をみつけた。私の趣味のキャンプでつかえる灯油ランタンを見つけて交渉していたら店の奥にフジツボがついた古い陶器がたくさん置かれていた。難破船から引き上げた物を売っているという。いい形の平茶碗を見つけた。思い出にこれを一つ買った。

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この先に見えるのが国境ゲート。

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国境横にあるマーケット群入り口

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中古布団店・・売ってるのかなあ捨ててるのかなあ?

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マーケットの様子。

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茶碗や壷。主人の話では200年前のもの ?

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マーケットのほんの一画


マサラムービー


インド駐在中映画を見たのは一回だけ。カルカッタでなんとあの米国映画「タイタニック」を見た。カルカッタに日本人団体用食料を買い出しにいった時、自由な時間が出来て、映画でもということになり、ある程度言葉がわかるというのでこれを選択した。

ブッダガヤは映画館もないので映画自体は見なかったがバザールで流れる音楽はほぼその時の流行りのインド映画音楽だったのでカセットはよく買った。1998年。シャールクカーン主演「デルト、パガラ、ヘ」がこの時の最も流行りで、このカセットを買った時の思い出が面白い。ブッダガヤ近郊ガヤ市のカセット屋にてこの映画の曲名が分からなかったのでニュアンスで伝えようと、店主にちょっと聞いてくれといい、私が鼻歌でこの歌を店先で「♪フフフーン」と歌って聞かすと店主は「いい歌だと思うが売れるかは難しい問題だ」と私がこの「♪フフフーン」を新曲として売れないかといっていると勘違い。ちがうちがう!分かったときにはお互い大爆笑した思い出がある。しかしお互い大丈夫か?

マサラムービー。「スラムドック$ミリオネア」や、つい最近の「めぐり逢わせのお弁当」なんか私にとって完全に今のハリウッドを抜いている。

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日本寺の僧房。個室で5畳ほど。トイレ、シャワーは共同。ここで音楽を聴いた。


みんないい人


先日バンコクにいったとき、前々から気になっているお寺に参拝した。高架列車BTSの南東のはずれに進むとブダガヤ大塔を模した大きい塔が車窓から見える。ガイドブックにあるような観光寺院ではない。名前すら分からないので、とりあえず建っている方向に歩いて行くがなかなか道が分からないので携帯でお寺の遠景写真をとって、その写真をバイクタクシーに見せてここにいきたいという作戦をとった。昔なら出来なかった技である。すぐに分かってくれ連れて行ってくれた。料金が分からないので40B出すと20Bしか受け取らない。いい人だ。こんなことはタイに来るようになって初めての経験である。お寺は歩いて瞑想する信者さんがちらほら、瞑想センターのようなお寺。私が外国人とわかった信者さんが塔を案内してくれるという。ありがたい。最上階にはスリランカからいただいた仏舎利がまつられていた。お参りをして話を聞くと瞑想で有名な高僧の建てたお寺で、今住職はカナダで布教しているとか。お礼をいいお寺を出た。さてこんどは帰り道が分からない。お寺の前に乗り合いトラックが止まっていたのでBTS駅まで行くというので乗る。しまった!肝心のお寺の名前を聞いてない。ドライバーに聞くと 「ワット ダンモンコン」と教えてくれた。降りる場所が分からないので乗っていると同乗の客からここだここだと教えてくれる。いい人だ。乗り合いトラックの料金も分からないので15Bはらうと5B返してくれた。みんないい人だ。

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塔全景

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迷って遠景からとったのがこれ。これをバイクタクシーに見せた。

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瞑想センターのような建物だった。

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仏舎利が塔の最上階にあった。

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近代的なブッダガヤ大塔のよう


ザ、テレビジョン


毎日テレビを見る。主にニュース。ネットなどでは数時間置きにネットニュースアプリを開く。世界はどうなるのか!こうなければ!いやになるがやめられない。

時折テレビを一切見ないという方がいる。その中には新聞も見ない人がいる。ビール飲みで有名なアウトドア作家がこのような生活を東京でしていて全く問題ないというエッセイを最近読んだ。わかるわかるおっしゃる通り。

私はインド駐在中お寺でテレビを見なかった。従業員用のテレビが一台あったが僧坊とは離れており煩わしく見に行かなかった。当時はインターネットもお寺にはない時代で2、3週間遅れで日本の新聞がOCSで郵送されるサービスをお寺が契約していたがまともに見たのは始めのうちだけだった。短波ラジオのNHKを聞くのも電波状況が日々左右されたので面倒になり聞かなくなった。そのうち日本で何がおこっているのか関心がなくなった。ニュースが分からないことにより私の生活は問題はなく安穏であった。

日本に帰国した日。久々に日本のテレビ番組を見た。流行の音楽などは全く分からない。インドと違い言葉は100%分かるが所々流れる情報のつながりがさっぱりわからない。すごい!いつも見流すコマーシャルなんか全部違う。食いるように深夜までテレビを見た。翌日目玉が痛くてテレビが見れなかった。

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ブッダガヤ大菩提寺


ブッダガヤ大塔は高さ52m大菩提寺(マハボディーテンプル)通称メインテンプルと呼ばれる。釈迦成道の地であり仏教徒最高の聖地でありユネスコ世界遺産でもある。この大塔の裏には金剛座と呼ばれるまさに悟りを開いた場所を記念する一畳ほどの石盤がある。ここを中心として各菩薩の供養塔やストゥーパ(お墓)が点在する公園のようになっている。隣接地には人工池や瞑想公園などがある。多くの僧侶や信者の祈りと修行や憩いの場である。

私はほぼ毎日夜6時すぎにお寺を出て7時からの大塔のお勤めに参加した。お寺に着くとまずお堂一階本堂で正面のパーラー朝時代の釈迦像にお参りする。次に外に出てお堂の周りを3回周り、裏の金剛座敷地へ入って金剛座に額を当ててお参りをする。ちょうど時間は7時前になりお堂の2階に上がる。2階は2つの部屋に分かれており入ってすぐはチベット仏教の一切経が壁一面に奉納されている3畳ほどの部屋。その奥に6畳ほどの1階と同じように正面に仏像のある本堂になっている。パーリー語のお経は7時から始まる。(パーリー語のお経とは上座部仏教で称えられるインドの古い時代の言葉による最古のお経。日本仏教も場合によって最初の部分だけ称える)この夜のお経はマイクでムスリムのアザーンのようにブッダガヤ中にスピーカーで放送される。お経は約20分ほどで参加するのはスリランカ、タイ、インドの上座部僧侶が20人ほどで、その中に私やチベット僧侶が数人混ざる。私は始め全くパーリーのお経は称えれないので英語のお経の本をもらいアルファベットで読んだがアルファベットでは表現しきれない発音も多く、結局カセットに録音してカタカナで経本を自分で作って読んだが、耳が出来てくると以前聞こえなかった発音が分かるようになり何度も上書き校正した。そのうち軽く暗唱できるようになりうれしかった。お経が終わり本堂の外でおしゃべりタイム。お互いの共通語は英語とヒンディー語。といっても外国人僧侶はみんな上手にはしゃべれない人も多く身振り手ぶり。まあ内容が簡単なので問題はなかった。

昼間も時々訪れた。瞑想したり観光客を眺めたり菩提樹の種を集めてみたりとゆっくりした時間が流れ、この聖地でこんな時間が持てるありがたさを噛みしめていた。ある日団体参拝の多い時期、ベンガル地方から白装束を着て参拝団体する人の多い時期、その中のお爺さんが大塔を周りにある大回廊で倒れているのを見つけた。普通に参拝していて何かしら脳卒中的なもので倒れたような状況だった。そのお爺さんの子供らしいおじさんは泣き、幾人かの僧侶、大塔の警備員が周りを静かに囲んでいた。大丈夫かと声をかけたが周りの皆は首を振って、もう無理だという。お爺さんは今往生するという瞬間であった。ベナレスでのヒンドゥー教徒が死を待つことは宗教的で有名な話だが、このブッダガヤで死を待つということはない。これは単なる偶然にすぎない。日本なら即救急車で大騒ぎなのだろうが、それをみんな当たり前のように受け入れることに大変なショックを受けた。お爺さんの周りの人は本当に静かにおじさんの呼吸が止まるのを見ていた。帰り道、動悸と涙が止まらない。何日もその光景が頭から離れなかった。こんな死が出来る世界をうらやましいと思った。

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大塔本堂1階

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夜の大塔

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各国僧侶。それぞれお参りにちがいあり興味津々。

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インド人僧侶のおしゃべりタイム

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ビルマ人僧侶の瞑想

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ブッダガヤ大塔・後ろにある菩提樹

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悟りの地、金剛座はこの格子の中にある。今は触ることも出来ない。


トゥクパ


インド料理の中華系の食べ物にチョウメンというカレー味の焼きそばがあるがラーメンのようなスープ系のものはマギーというカレー味のインスタントラーメン(極めて個性的な味)のようなものしかない。ただ北のチベット文化圏にいけばトゥクパというラーメンのような麺料理がある。冬の期間ブッダガヤにはたくさんのチベット人が参拝に来てチベット人街が出来た。そのなかにチベッタンレストランテント村が出来てこの麺を食べるためによく通った。その他にモモという蒸し餃子のようなもありラーメン餃子定食もどきが食べれた。もどきといえど下手なラーメンより美味しかった。モモは確実に餃子より美味しい。

トゥクパは具沢山で野菜だけのものやチキンやマトンの肉入りもある。少しソイソース(インド醤油)をたらして食べると絶品になる。ただ一点日本人としての唯一の不満は「ぬるい」ことである。インド人は猫舌である。

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チベットレストランにて98年12月。同期駐在のY師、ビジャイ氏と。

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2014年シッキムのカギュ派本山前で食べたトゥクパとモモ。見るからにぬるそう。

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シッキムのガントクにてインド料理店なのにオーナーがチベット人だったので作ってくれたトゥクパ。

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シッキムに向う標高2000Mの茶屋でお茶休憩ならぬモモ休憩。