バンコクのインド人街


バンコクにパフラットというインド人街がある。基本的には生地屋街だがインドで売っている日用品などの商品も多い。インドに行かなくてもインド食材、スパイスなどはここで買えるのでインドに行けないときはここで購入する。この街は迷路のように入り組んだ商店街となっており、その中をウロウロするのは宝探しのようでたのしい。最近はインディア・エンポリウムというショッピングビルも出来て少しだけ再開発されている。シーク教寺院では無料で朝食が提供されていたり色々な発見が時々あるインド人街やバンコクの街歩きはたまらなく楽しい。

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インディアエンポリウム

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偶然見つけたチベットグッズショップ

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バンコクなのにトイレの案内もインド風


仏像復興計画3


工事は2000年10月に完成を目指し進められた。高知県仏教青年会でも新年度より募金を募り多くの寺院から協力がいただけた。堂宇は日本のお寺風で屋根瓦や鬼瓦もコンクリートにより彫刻するように作られた。瓦一枚一枚ではなく日本のお寺の写真を見たままの外観の通りに作る。職人は瓦を見たことないインド人だ。

酷暑や雨季もありなかなか工事は進まない。落慶法要は忙しいお寺さんの団体旅行なので、出来たらさあすぐ行きますにはならない。建設と旅行準備を並行して進めた。

10月団体旅行数日前、準備のため団体より早くインドに出発した。ジェティアン村に行くと堂宇は建ったが肝心の仏像がまだ据え付けられていなかった。これは焦った。翌日ジェティアン村の村民あげて手動ウインチと人力で数百キロはある仏像が動かされ、やっとのこと堂宇に鎮座したのを確認しデリー空港に団体を迎えに行った。

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jethian 仏像を堂宇に人力であげる

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jethian 仏像を堂宇に上げる作業

数日後青年会とともにジェティアン村に無事到着した。堂宇は綺麗に飾られ多くの人が集まっていた。完成した堂宇の前に村長を始め村の重鎮が一張羅のクルタを着て整列しているのをみてこみ上げて来るものがあった。お堂の前で横に並んだ姿は彼らの姿は今も忘れることができない。

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集まった村人たち

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jethian 落慶法要

 

村の娘たちが晴れ着を着て歌で迎えてくれる。頑張ってお父さんに買ってもらったであろう新品の服を着た子供が目立つ。

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jethian村から歌のプレゼント

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参拝団の面々。堂宇上にあるのが協力いただいた寺院のドネションプレート

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村の各地から集まっている放置仏像

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近年の写真。赤い色はちゃんと祀られている証拠

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ブラックストーン。基本的に仏像はこの石で作られる。油で磨くと真っ黒になる。

村長たちを握手を交わし落慶法要修行。村の方々からのスピーチ、仏教青年会参拝団長からの挨拶、私の挨拶続いた。日本にこの繁栄をもたらしたのは仏教によるものであり、お釈迦様がサルナートで友人の僧侶に教えを説いたのちに、ビンビサーラ王を始め多くの一般民衆にこの場所で初めて教えを説いたジェティアン村は仏教の出発点でもある。その感謝を込めてこのお堂を作った。これからは村の皆さんでしっかり管理してほしい。そしてもし放置された仏像があったらここに持ってきて供養してほしいとお願いをした。

また心の中でこれを見たインド人がこのお堂をわざわざ日本から来て作る仏教徒ってなんだろう。仏教ってなんだろうと思う人がいてくれて、そして一人でもいいから仏教を学んでくれたらいいと願った。

わたしたちの本当の願いは仏像復興ではなく仏教復興である。

その後2000年から高知県仏教青年会は4年ごとに渡印しこの堂宇護持や仏像復興を行うことになった。

当時のことは中外日報という宗教新聞にも取り上げられて掲載された。

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jethian 堂宇に集まった人たち

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jethian堂宇全景

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復興された仏像。赤いのはヒンズー教徒のお参りで金箔はタイ周辺の仏教徒のお参りの証拠

 

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jethian 記念冊子

 


もうみんな家に帰ろう!


「もうみんな家に帰ろう!」一ノ瀬泰造著『地雷を踏んだらサヨウナラ』中にある戦場での名言である。小学校の高学年の作文で将来なりたい職業というのを書いた。それは「特派員」。NHKに同姓の特派員がおり時々ニュースに出ていたので親戚でもないのに親近感と海外への憧れから特派員になりたいと思っていた。いろんな経験を重ねる中で高校生時には沢田教一やロバート・キャパなどの大御所写真記者にハマる中、特に一之瀬泰造、代表著書「地雷を踏んだらサヨウナラ」というフリーランスの写真記者にはまった。その後写真を習ったりしたが当然僧侶になる道しかなかったので諦めるなかで出会ったのが「インド日本寺駐在僧」こんなことが駐在する一因だったのかもしれない。その後彼のことは浅野忠信主演で映画化もされた。地方では見れないマイナー映画なのでわざわざ東京まで見に行ったほどだ。

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一ノ瀬泰造氏の墓

近年カンボジアのアンコールワットに行く機会があった。一之瀬氏がアンコールワットの写真をとるためここを目指しポルポトに殺され、墓がシェムリアップ郊外にあることは知っていた。若き日の思い出から何気なく行く前にネットを見ていると「一之瀬泰造の墓参りと地雷博物館ツアー」というのを見つけた。こんなのがあるんだ!早速申し込んだ。

村の畑の中に彼の墓があった。このために最高の伽羅線香を供えお参りをして改めて周りを見た。普通の田舎のアジアの平和な村。かつて戦場とは思えない。

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村の子供。人懐っこい。手前二人はうちの子

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このあたりで今も見つかる地雷、不発弾。

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虐殺された方々。

その後アキ・ラー氏の地雷博物館に行った。現在も地雷を撤去する仕事をしている有名なカンボジア人だ。島田紳助氏がTVで援助したりしたので知っている方も多い。当日も日本の学生団体や平和団体がたくさん見学に来ていた。ガイドが私の顔をみて爆笑した。兄弟か?

ツアーに行った同行の日本の方は一之瀬氏は知らないと言っていた、ツアー目的は地雷博物館。しかしながら一之瀬氏のお墓にあった旅行者メモには「やっと来れた、うれしい」的な書き込みを時々されていたのは嬉しかった。

最後に。「もうみんな家に帰ろう!」彼が戦場で戦闘中に発して兵士言った有名なこの言葉。平和はこの言葉につきる。

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地雷博物館館長、アキ・ラ氏。生き別れの兄弟ではない。

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中国製旧式戦車。自国で使わなくなった古い武器を第3国に売り戦争を起こして儲けるのが大国のいつもの商売。


仏像復興計画2


帰国して私は高知県の超宗派の「高知県仏教青年会」に入会した。インド帰りということで先輩などから可愛がられた。そんな時このジェティアンの仏像の話をしたら青年会でその仏像のために堂宇(お堂)を作ろうという話になった。ちょうど青年会発足25周年に重なることもあり話もトントン拍子に動いたが問題も起こった。仏像を起こすくらいなら村の許可でも問題ないが建物を建てるとなるとガヤ市の公的許可が必要になった。

99年12月仏教青年会有志2人と共にジェティアン村に起工式とガヤ市長への許可をもらいに渡印した。起工式は村人がたくさん集まり地元に伝わるヒンズー教の儀式により盛大に行われた。

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起工式のようす jethian

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起工式のインド新聞記事 jethian

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村人の書いた願書。村の主な方の同意サイン入り建設願い書

インド地図

ジェティアンの場所 jethian

ところがガヤ市の建設許可で起工式の数ヶ月前から願書は村長から提出されていたがまったく動きがない。いつ許可が出るのかもまったくわからないということだった。まあインドらしい。これは直談判しかない。完璧な書類を作り会うことにした。私たちはガヤ市役所に行く前に管轄する区長の許可をもらい、規約、堂宇建設のインド銀行口座まで作って出向いた。初日はあってもくれない。明日こいという。翌日何時間も待たされた。やっと通された時は疲労困憊。市長(DM)にこのたびの計画と署名などの書類を見せる。私たちは満面の笑顔で許可を待った。隣の参謀が書類を見ながら喋るとすんなり市長は幾つかの条件を出し許可を出してくれた。明日までに許可証を作らすから出直せという。ありがとうございます!完成の折には是非ともお出でくださいといい事務所を出た。 あたりはもう暗くなりかけていた。翌日建設許可証が無事発行された。さあ工事の始まりだ。

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ジェティアン仏像    jethian

 

 

 

 


No more HIROSHIMA,No more NAGASAKI.


インドで日本のどこから来たという話題になった時「TOKYO? or OSAKA?」という質問になる。高知県といっても説明するのに大変なので大阪の近くだといってお茶を濁す。シッキムの土産物屋で世間話をしている時、この話になった。広島の友人N師と行っていたので私はいつもの大阪の近くと話したが彼はそのまんま「Hiroshima・・・」というやいなや一気に顔つきが変わった「広島!大丈夫なのか!」「いやいやもう広島はデリーくらいの大都会だ。長崎も同じだ。問題無い」「Oh・・Hiroshima,Nagasaki・・」と彼はつぶやいていた。インドでも原爆投下は学校で習う。地名は広島と長崎は東京並みに一発で通じる。

駐在中の1998年8月6日大塔の金剛座前でブッダガヤ隣山会主催で広島長崎平和祈願追悼法要を行った。ブッダガヤ中の各国住職、主幹も集まり約30分の法要があった。みんなから日本人だからなんか喋れと言われて「私たち日本人の願いはノーモア広島ノーモア長崎です」と静かに言った。新聞社も数社来ており翌日写真入りで大きく掲載されたインド人の関心の高さが感じられた。

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法要中、手前は金剛座

 

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左から日本の大乗教主幹、インド人僧侶、私、大塔管理委員会主幹


散髪屋ナーイ


お坊さんなのに髪の毛がある。エッ!一般的にはびっくりするかもしれない。わが浄土真宗は有髪がまったく問題ない。お坊さんになる時(得度)は男性のみ一回だけ剃り上げる決まりはあるがその後ヘアスタイルは個人の自由である。念仏信仰のためには有髪も丸坊主も関係がないというスタンスだ。というわけで日本寺に赴任するときスポーツ刈りでインドに出向いた。浄土真宗だからいいだろうと。しかし日本寺に到着する前日いっしょに行った先輩僧侶から有無を言わさず頭剃りを命じられ、村の散髪屋で剃髪した。今思えば当たり前で髪の毛が伸びたお坊さんというのは基本インドでは考えられない。赴任終了の帰国に合わせて少し伸ばし始めた時にスリランカのお坊さんからそろそろ剃ったらどうだと言われたこともある。

日本寺には週に一回のわりで出張の散髪屋さんが来てくれた。頭を剃ってくれるナーイと呼ばれる散髪屋のおじさん。一回5RS15円で剃ってくれるがカミソリが伝統的な一枚刃のあまり剃れないカミソリなので痛い。頭を切られることも普通で、いやなので時々T字カミソリで自分でしていた時もあったが、せっかくお寺まで出張したのに何故しないのだと言われるのと自分で剃るのは結構手間がかかるので大体お世話になった。

ある時剃髪中、後頭部の首筋近くを切られて結構出血したことがあった。特に気にしていなかったが数日後腫れて熱まで出だした。首が曲がらないくらいパンパンに後頭部首筋が腫れて日本寺付属の病院で抗生物質をもらってなんとかなったが、帰国しても同じところが数年間にわたり年に数回腫れた。後から聞くと彼の使うカミソリは消毒すらせず使い、また遺体の毛を火葬する前に剃ることをヒンズー教は行うが、それも彼の仕事で同じカミソリを使っていたそうだ。

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ナーイのおじさん。おじさんの横に散髪時に首にかけてる布と手前に散髪道具入れが写る。


仏像復興計画1


98年末。ラジギールへの出張のとき日本寺ドライバーのBが学生のころ受験でガヤ市郊外ジェテアン村にある学校の前に放置された大きい仏像を見たことがあるので、ちょうどラジギール出張で帰り道に立ち寄れる距離なので行きませんかという話があった。

そこはガヤ市郊外の田舎でラジギールとブッダガヤを結ぶ旧道にある大きな学校がある以外はごく普通の農業主体のジェティアンという村であった。村の入り口の丘の上に椅子に座った姿のお釈迦様のブラックストーンという石で作られた仏像が放置されていた。13世紀ムスリムが侵攻した時の名残である。近所のおばさんたちが簡単な供え物はしていたが倒れかかり何百年と放置されている仏像であった。

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ジェティアン仏像 jethian

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ジェティアン仏像、遠景 jethian

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ジェティアン仏像     jethian

 

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村の人に守られている jethian

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近所のおばさんがお参りにくる

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その他放置されたヒンズーの神様像

この村はマガダ国首都ラジギールのビンビサーラ王にお釈迦様が佛法を初めて説いた場所であり、またお釈迦様が安居という雨季の期間出歩かず一箇所に留まって勉強する場所に一時期使ったり、お釈迦様が住んだこともある洞窟があったり、またまた三蔵法師が訪れたという記録も残っているという言わば忘れられた聖地であった。しかしこのようなことは後になって知ったのであってその時は知る由もなかった。

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ジェティアン村人との協議

このとき私と駐在同期のY師と訪れ、あまりの放置ぶりに、この傾いた仏像をせめて土台に乗せて日本で言うところのお地蔵さんくらいの形にしましょうと決めた。その後ジェティアン村の人々とも話し合い、それならどうぞ作ってくださいという話でまとまった。ちょうど私は駐在を終えて帰国することとなったが、必ず帰国しても復興しようと誓った。

 


チャイ


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素焼きのカップ

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村のチャイ屋

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お菓子も売っている。必ず上の方をいただこう。下の方は下痢確率が高い

インドといえば「チャイ」。シナモンやマサラなどを少し入れて砂糖をたくさん入れる通常のミルクティーではないインドの紅茶である。インド人はこれを作る人をチャイワーラー(紅茶屋さん)と言い、彼らのいない場所はない。そういえば映画『スラムドック⭐︎ミリオネア』の主人公をチャイワーラーとクイズの司会役のアミダブ・バッチャンがいっていたのを思い出す。ホテルなら50Rs以上、飛行場なら20Rs、鉄道なら5Rs、村なら3Rsぐらいと値段は大きく変わるが確かなのは安いほど美味しいということだ。ホテルは綺麗な陶器のカップにいれられ砂糖は自分で入れる日本と同じミルクティー式。飛行機はかっこいいネスレなどの印刷した紙コップに機械から出るインスタントのチャイ。鉄道はヤカンに入れたものをペラペラのプラスチックコップに入れる自家製チャイ。村は土で作った素焼きコップ(日本人から見るとおちょこ)に注文を受けてから作る自家製チャイ。村のチャイはコップの素焼きの独特な土の匂いとともにいただくチャイはわたし的には世界一おいしい飲みものである。小さいグラスに入れたりするバージョンもあるが衛生的に見ても、土で作った小さい素焼きカップが一番好きで、通常は飲んだらそのまま割って捨てて自然に返す究極のエコカップだがもったいなくて形のいいものは持って帰る。

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このような鍋で作りヤカンで保管する

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できたチャイをヤカンに移す

さて本当の田舎に行くと牛乳がなかったりして紅茶茶葉だけのチャイが出ることがある。使用される最安値の茶葉から作るこのチャイはミルクはないがその甘み渋みなどは絶品でびっくりすることがある。

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シッキムの州立の紅茶屋。格安。

逆の最高級の話をするとやはりダージリンかシッキムの無農薬紅茶である。日本なら末端価格50g2000円以上するんではないだろうか。ダージリンには農薬を使う農園もあるそうで見極めは大切である。シッキム茶は州が管理し基本無農薬とのこと。個人の好みもあるがダージリン茶はあっさり都会的でシッキム茶は深い田舎的なのが私の味わい。どちらもすばらしい。


ベジタリアン


日本寺の駐在僧の食事は菜食であった。朝はインド米おかゆとチャパティーと野菜スープたまにインド味噌汁。このインド味噌はカルカッタ中華街で入手出来る中国料理用の味噌で日本の味噌ではない。日本寺に巡礼団体宿泊があった時には余ったものや在庫に余裕があるとき頂けた。昼はインド焼きそばや野菜カレーなど夜はインド焼き飯やインド庶民料理など。歴代駐在僧が伝えた日本料理のようなインド料理も出た。私も図書室にあった料理本レシピから乳製品が豊富なのとマカロニが入手できたのでグラタンなどをコックのMに教えたが日本並みにはできなかった。またレシピ本をヒントにキムチも作ってみたが野菜だけでは美味しくは作れなかった。

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カルカッタの中華食材屋。醤油、味噌、ごま油、タケノコなどを仏跡ツアー団体用に買った。

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チャパティーとジャガイモカレー。日本寺の幼稚園「菩提樹学園」の昼食

さてこの菜食が私は体に合っているようで体の調子が良かった。体重も駐在前は不摂生で85キロほどあったが帰国時65キロ。たまにおみやげでもらうインスタントラーメンを食べたりしたが調味料に肉エキスが入っているのが原因なのか便秘になり2日くらいお腹の調子が悪く、だるさが残った。しかしながらこの菜食は万人の体にいいと思うかもしれないがそうではないようだ。例えばダライ・ラマ法王は多少の肉を食べないといけない体質である。医者からそのように指導されているとのこと。もともと野菜の少ないチベット高地の方は肉をよく食べる歴史からそのような体質になったのだろうか。ちなみに戒律が厳しい上座部仏教は布施されたものは肉でも魚でも食べれる。もちろん基本は菜食だが。精進は中国より東の大乗仏教系である。なんでもありと思われる我が浄土真宗も親鸞聖人の命日や報恩講中は精進料理が基本であり、浄土真宗の熱心な地区は魚屋や肉屋がその期間は店を閉めるほどである。