いただきます 命をいただくということ


母校の僧侶でもある先生がある方に「いただきます」はなぜするのかとの質問に、それは「作ってくれた料理人や生産者に感謝するのだ」と答えたそうで、あるいはレストランなどで「いただきますをいうのは対価を払っているので言う必要はない」という方もいたそうである。

私の子供が2、3歳のころスーパーの魚を見て「魚の屍だね」といってそんな「シカバネ」なんてどこで覚えたのかという面白さと、大人にはない的確な発言に爆笑したことがあった。普通はスーパーの魚は食料としての視点のみで「死んだ魚」という感覚はあまりない。「死んだサンマ・200円」ではちょっと買いづらい。いやもうすこし現実を言うと「殺したサンマ」か。こうなると商売としてはアウト。

アジアの市場の鮮魚店や生肉店を歩けば、ついさっきまで生きていたその姿、血や体液の匂いまた腐敗が始まりだす死の匂い。アジアの市場は五感で命が感じられる。

スーパー鮮魚売り場に並ぶ命の対価はその魚には支払われない。本当はまだ生きることの出来たその命にできることは、その魚に対する感謝以外にはない。合掌。命をいただきます。

ルアンパバーン朝市。

 

豚などの生肉店。

竹で縛られた食用カニ

早朝、川で網にかかったエイ

昨晩から早朝にかけてメコン川で捕まえられた大ナマズ

森で人間に捕まえられた生きた食材としての小動物(ペット用ではない)

メコン川で人間に捕まり仲間と数日、生簀で飼われた後、まとまった数になったので出荷された生きたカニ(食用)