聖地でのマナー


仏教は大乗、上座部(小乗)から国や文化、信じる仏や教典によって様々なグループが存在する。つまり日本仏教では浄土真宗があったり日蓮宗があったり真言宗と違いがあるが、インドの聖地は共通する。したがってそこでのお参りのやり方はそれぞれ違いが出てくる。ナンマンダーと称えるクループがあったりオンマニペメフーン(チベット)というグループもあったり、本当にいろいろある。そこが面白いところなのだが、やっていいことと悪いことがある。かつてオウム真理教の教祖は絶対に上ってはいけない(通常発想できない)お釈迦様の悟りの場所に鎮座する仏教徒最高の石盤、金剛座に座ったことがあった。信心は大切だがマナーも大切。

数年前仏教青年会で早朝ラジギール霊鷲山に参拝にいった。念仏や法華経をお釈迦様が解いた大聖地である。このとき他の50人くらいの日本人の先客がおり自分たちの信じるお経を大声で称えていた。私たちはそれが終わるのを静かに待った。お経が終わり私たちの番。お経を始めるが先ほどお経を称えていた人たちは大爆笑や大声で写真をとったり話をしている。私たちは静かに自分たちそれぞれの想いをこめてお経を称える。私たちは笑顔で山を下りた。      マナーは大切に。

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天然石の鷲が口を開いて手前が羽のように見えるから「霊鷲山」

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霊鷲山から朝日を拝む。


シッキムレポート


以下のレポートは浄土真宗の四国管内。四州教区から教区報原稿依頼のあったものに加筆したもの(文体が違うのはそのため)

今年6月インド国シッキムに入域しました。この地は本願寺22世門主・大谷光瑞猊下の命をうけチベットに入り多くの資料足跡を残した本願寺派僧侶、多田等観師がこの方面からブータンを抜け密かにチベットに入った場所です。先日京都龍谷ミュージアムにて師の特別展が行われてお目に触れた方も多いと思います。

まず私たちはカルカッタの北方、シリグリという町から通常は整備された国道でシッキムに向かうのが通常のルートですが、せっかくなので多田師がチベットに行くために超えたと思われる峠を目指しました。山道に入る手前は一面茶畑で特にシッキムに入ると政府による広大な茶畑がみれます。四国山地のような景色の山道を通りますが舗装路は奥に進むほど狭く未舗装となり最後は崖崩れして道に数メートルの巨石がいたるところに落ちている道を進みます。日本なら通行止めでしょう。対面の山道が崩れている瞬間が見えたほどです。しかしこれよりもっと狭い危険な道を徒歩で時には密入国であったため現地人になりすまし裸足でチベットに多田師は入国したそうです。求道心に頭が下がります。標高2000mのラヴァという町を超えてシッキムに入りました。シッキムは現在インド人以外は特別な入域許可が必要で州境で申請します。

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シッキムへの道。まだマシな方

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一面の茶畑

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シッキムの街

シッキムの州都ガントクは標高約1800mの山頂にへばりつくように出来た町です。インド人が避暑地として観光に来ており、非常にきれいな町です。観光地でありながらインドでよく会うしつこい土産物売りは皆無で落ち着いた印象です。チベット文化圏ですのでいたるところに仏教寺院が有ります。お寺はたくさんの僧侶が住み講堂で勉強している姿をよく見ました。勉強の仕方を聞きますと、すべて教典は暗記が基本とのこと。ちなみに浄土真宗のネパール開教区カトマンズ本願寺のソナム所長はこのシッキム出身でこういったお寺の学校の校長であったそうです。

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お経を覚える僧侶

ガントクでは一軒の亡命チベット人の家に招待されました。お仏壇を見せていただきました。お仏壇にはいろいろな仏様がまつられており、チベットから持って来たという古い写真は若い頃のダライラマ法王や中国に破壊される前のチベットの街並みお寺などが写っていました。現在の同じお寺の写真を見たことがあったのでその変わりように涙が出ました。

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ムルテク寺院

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チベット仏教徒の仏壇

 

翌日はチベット仏教の四大宗派の一つ、カギュ派の総本山ムルテク僧院に参りました。この宗派の門主というべき、カルマパ17世猊下は2000年、中国からインドに亡命しましたが、シッキムは中国に地理的に非常に近く政治的理由でいまだ入寺できずチベット亡命政府のあるダラムサラにいます。師はダライラマ法王と並ぶチベット仏教徒の心の支えです。寺院内はちょうど法要の最中で100人を超える僧侶が読経しておりその重低音のお経は意味はわからずとも心にしみるものでした。本堂内の阿弥陀仏にお参りし境内を散策。たくさんの信者さんが本尊に向かって五体投地で拝む姿は心を打たれます。その後他の同様の寺院に参るのですが、その度山道を数時間かけなくてはならず体力的に非常に苦労します。
ムルテク僧院本堂数日の滞在でしたが多田等観師の足跡、チベット仏教徒の置かれた現状、文化などを味わうことが出来ました。現地は飛行機でデリーやバンコク経由で西ベンガル州バグドグラ空港からはタクシーで4時間ほどでシッキムです。近くには紅茶で有名なダージリンもあり仏跡旅行で行くインドとはまた違った雰囲気です。

浄土真宗とチベット仏教はこのように大谷探検隊と先代ダライ・ラマ13世の時から繋がりがあり、チベット国旗を作ったのも浄土真宗の僧侶・青木文教ですし、また現14世の兄が築地本願寺にお住まいになったこともあります。ダライ・ラマ14世は2005年に本願寺に表敬訪問されました。『愚の力』 (文春新書)大谷光真著にその時の対談の様子が詳しく書かれています

追記:多田師は本願寺門主派遣の留学僧として入蔵しましたがその後門主が失脚し、西本願寺からの援助が断たれ大変苦労されてこの偉業を行いました。現在多田師の偉業を大谷探検隊の手柄のようによく言われますが少し事実とは違うようです。

 

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実際に掲載されたもの


B.R.アンベードカル


インドで一般の仏教寺院や門前土産物屋で大橋巨泉のようなおじさんの写真や像を見ることがある。B.R.アンベードカル氏。

仏教徒は1%くらいといわれている。そしてここには2つの大きな流れがある。一つは少数ではあるがベンガル地方からビルマ国境付近を中心とした伝統的な上座部仏教。そしてインド独立の際、法務大臣としてインド法律草案作成者である政治家B.R.アンベードカル氏が行ったカースト制度の不可触民解放運動として仏教に改宗したことに始まる「新仏教運動」※1と呼ばれる2つの流れである。「新仏教運動」は先に紹介した佐々井秀嶺師に引き継がれ非常に大きな流れとなっている。このアンベードカル氏は独立を支えた方でもあるので宗教を問わずして人気があるが、特にインド仏教徒には菩薩として偶像崇拝されるほど人気がある。(チベット仏教は除く)

98年2月末インドのシリコンバレー・バンガロールに日本寺にパソコン導入のため視察出張の命を受けた。休暇もかねており約3週間旅行。ムンバイ・バンガロール・ケラーラを周る予定を組んだ。アンベードカル氏はムンバイに住まいをおいていた、出発前ブッダガヤで知り合ったムンバイのお坊さんをたよりにアンベードカル氏旧跡巡りをお願いしていた。指定されたアンベードカル・ガンジという場所の大学に行くとお坊さんは留守だったがTV関係者と大学の先生がお世話してくれた。

いきなり連れて行ってくれたのはアンベードカルの家。しかもいきなりの直接訪問。ノックして若い女性が出てお孫さんかお手伝いさんか分からないが「急に来られても無理!」と門前払い。当然。その後有名なアンベードカル著作「ブッダとそのダンマ」の印刷工場へ。歴史を感じる印刷所でいまは普通のノートとかを印刷しているとか。そこら中にあの本を作ったアルファベットの印刷用活字が転がる。

山際素男著「ブッダとそのダンマ」で彼のことを知ることが出来る。

※1「新仏教運動」一般にこの表現をしているが仏教徒に新しいも古いも無い。特に「新仏教徒」と彼らをくくることは適切な言葉では無い。「仏教復興運動」ともいう。

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アンベードカル宅

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インドの街角にあるアンベードカル像。ちょっとした町なら見つけることができる。

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印刷工場。作業場にも彼の写真が掲げられている。

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陶器市で見つけたアンベードカル像。 インド仏教徒は仏像の横に置くことが多い。

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アンベードカルグッズ

 


インドの交通事故


数年前ニューデリー郊外を団体バスで移動中、急ブレーキと共に一緒に旅行している女性の悲鳴が聞こえた。私は左側席であったが右側席の様子が尋常じゃない。なんだなんだと見に行くと事故で人が倒れてたという。バスはそのまま進んだので私はその現場は見れなかったが、お父さんらしい人の下あごを残し頭部が飛ばされて無い遺体を中心に子供を含む家族らしい数人が身動きせず倒れていたという。インドは横断歩道なんてないも同然だから道を渡ろうとした家族がトラックかなにかにはねられたのだろう。加害車らしいは止まっていなかったそうだ。かわいそうに。

インドは交通事故が多い。駐在中何度も事故現場や事故の話もよく聞いた。インドで死亡人身事故が起こると警察が来る前にその現場でドライバーはリンチにあうという。だからドライバーは事故後すぐにその場を逃げるそうだ。現場で車が動かなくなても走って逃げるという。車から犯人は割れ後々捕まるだろうが、その場にいたら殺されかもしれない。

カルカッタでタクシーで移動中、10歳くらいの子供の自転車がふらふらと私たちのタクシーにぶつかって倒れた。けがはなかったが日本なら確実に人身事故である。ちょうど交差点で警官がそばで見ていた。警官が近づいて来てドライバーに注意すると思いきや、なんと長い警棒で子供をたたき怒り始めた。どいうことかガイド確認すると子供の自転車の運転が下手なことを警官が注意したという。

またカルカッタで信号待ちで後ろの車がトンと軽くぶつかって来た。一応、追突されたわけであるが、ドライバーはバックミラーで後ろのドライバーをチラッとにらむだけであとはお互い全く問題なし・・。逆にこちらが信号待ちで前の車に当たって止まったこともあった。もちろん問題なし。まあそのために前後にバンパーがあるのだが。

車社会もこれほどインドは違う。

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事故にあったトラック。長距離を移動すると結構な確率で見れる。

 

 


ダブラ


日本寺駐在中に仏教関係以外で唯一本格的に習ったのがインドの太鼓「タブラ」。インド音楽といえばシタールかタブラかというメジャーな楽器である。日本寺生活も1年ほどが経ち何かインドっぽいものを身につけようかと考えたのがこの「タブラ」。シタールはかさばるからタブラならばコンパクトで簡単そうというのがこれを選んだ動機。それまでドラム関係は触ったことすらなかったが三線はかじっていたので何とかなると思った。

スリランカ寺の子供会の発表会の補佐で、タブラをたたいていたアジャイ・クマールさんに初めて会った。日本寺従業員に仲介に入ってもらい先生になっていただいた。月謝2000RS土日と忙しい時期以外ほぼ毎日。日本寺の休み時間に1時間教えてもらうことになった。タブラはバーヤンという低音を出す太鼓とタブラという高音を出す太鼓を両手でたたきその音のミックスによって音楽となる。習い始めたら音符ではなく太鼓のたたく場所によって「Dha Dhin Dhin Dha  Dha Dhin Dhin Dha・・・」という三線の工工四のような言葉が音符であった。しかし簡単どころか始めまったく音が出せない。特にバーヤンの低音のブーンという手の平で滑らすように音を出すことが数ヶ月できなかった。またパタパタと高速で指ではたくタブラ独特の音は最後まで上手にたたけなかった。途中何度もやめようかとも思ったが帰国まで7ヶ月間習った。とはいえこの先生との縁により日本寺で2回のインドクラシックコンサートを開くことが出来、なによりもインドクラシックを聞き流すのではなく内容や構成、どこがうまい技なのかが分かるようになったのがうれしかった。帰国して高知県内のシタールをする方と知り合い八十八カ所札所の高知竹林寺さんのイベントや県文化ホールなどで数回コンサートで共演したりした。

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アジャイ・クマール氏。日本寺の国際仏教徒結集という学会の出し物の一つにて

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初めての外国人弟子ということもあり、約一時間みっちり仕込まれる

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アジャイ氏の家にて横は兄ビジャイ・クマール氏彼はアジャイ氏よりタブラーがうまい。アジャイ氏休みの時はたまに習った。

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ブッダガヤにある彼の教室兼

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兄ビジャイ・クマール氏のセッション

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98年大晦日に開かれた日本寺インドクラシックコンサート。

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たくさんのお客さんが来てくれた。

 

 


マサラムービー


インド駐在中映画を見たのは一回だけ。カルカッタでなんとあの米国映画「タイタニック」を見た。カルカッタに日本人団体用食料を買い出しにいった時、自由な時間が出来て、映画でもということになり、ある程度言葉がわかるというのでこれを選択した。

ブッダガヤは映画館もないので映画自体は見なかったがバザールで流れる音楽はほぼその時の流行りのインド映画音楽だったのでカセットはよく買った。1998年。シャールクカーン主演「デルト、パガラ、ヘ」がこの時の最も流行りで、このカセットを買った時の思い出が面白い。ブッダガヤ近郊ガヤ市のカセット屋にてこの映画の曲名が分からなかったのでニュアンスで伝えようと、店主にちょっと聞いてくれといい、私が鼻歌でこの歌を店先で「♪フフフーン」と歌って聞かすと店主は「いい歌だと思うが売れるかは難しい問題だ」と私がこの「♪フフフーン」を新曲として売れないかといっていると勘違い。ちがうちがう!分かったときにはお互い大爆笑した思い出がある。しかしお互い大丈夫か?

マサラムービー。「スラムドック$ミリオネア」や、つい最近の「めぐり逢わせのお弁当」なんか私にとって完全に今のハリウッドを抜いている。

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日本寺の僧房。個室で5畳ほど。トイレ、シャワーは共同。ここで音楽を聴いた。


トゥクパ


インド料理の中華系の食べ物にチョウメンというカレー味の焼きそばがあるがラーメンのようなスープ系のものはマギーというカレー味のインスタントラーメン(極めて個性的な味)のようなものしかない。ただ北のチベット文化圏にいけばトゥクパというラーメンのような麺料理がある。冬の期間ブッダガヤにはたくさんのチベット人が参拝に来てチベット人街が出来た。そのなかにチベッタンレストランテント村が出来てこの麺を食べるためによく通った。その他にモモという蒸し餃子のようなもありラーメン餃子定食もどきが食べれた。もどきといえど下手なラーメンより美味しかった。モモは確実に餃子より美味しい。

トゥクパは具沢山で野菜だけのものやチキンやマトンの肉入りもある。少しソイソース(インド醤油)をたらして食べると絶品になる。ただ一点日本人としての唯一の不満は「ぬるい」ことである。インド人は猫舌である。

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チベットレストランにて98年12月。同期駐在のY師、ビジャイ氏と。

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2014年シッキムのカギュ派本山前で食べたトゥクパとモモ。見るからにぬるそう。

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シッキムのガントクにてインド料理店なのにオーナーがチベット人だったので作ってくれたトゥクパ。

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シッキムに向う標高2000Mの茶屋でお茶休憩ならぬモモ休憩。


佐々井秀嶺師


佐々井秀嶺師。日本人であったがインドの「不可触民」を差別から解放するため仏教へ改宗させる運動を何十年と行いインドに帰化された非常に熱い僧侶である。仏教はカーストを否定する完全平等の教えである。

多くのヒンドゥー教徒インド人を仏教に改宗させ一大ムーブメントになる流れを作ったインド仏教徒なら知らない人はいない方だ。はるか昔、日本寺に数ヶ月間駐在僧をしたこともある大先輩である。赴任する前、佐々井師のことは本などで知っており非常に興味があった。

赴任して数ヶ月ほどした11月末ブッダガヤに佐々井師が来ているというので会いにいった。夜、大塔管理委員会という大塔の事務局にある宿舎に行くと通常のドミトリー(相部屋)のベットの上に座っておられた。「私が佐々井です」堂々とした自信に満ちた始めの言葉だった。赤茶のシャツとズボン、ぼろぼろのダウンジャケットを着て袈裟を羽織っていた。彼は私は日本の仏教のよいところだけをこの運動に活かしているという。例えば強盗を改心さすためには親鸞聖人の悪人正機の話、闘争には日蓮上人など臨機応変に日本仏教を使い伝道に活かしているのだと。また日本仏教は宗派だけにこだわりお釈迦様はおろそかにしてるなど、そのような話を1時間ほどした。常に目を見て話す方で普通の時はニコニコとお話しされるが仏教や改宗運動の話になると非常に厳しい顔をされたのが印象的だった。ガラガラのだみ声で日本語とヒンディー語が混ざり立て板に水のペースでお話になるのでなかなか聞き取れなかった。

この時期ブッダガヤ大塔の仏教徒の管理は佐々井師のグループとスリランカ(マハボディーソサエティー)のグループの2大勢力があり、この翌日は隣山会の会議がありその主権争いでもめていた。(ちなみに有名なブッダガヤ大塔管理委員会の仏教徒とヒンドゥー教徒との主権争い話とは別問題)

時々仏教聖地旅行の会社が佐々井師の住むナグプールという街へ佐々井師謁見の旅の案内が送られてくるのを見て懐かしく思う。

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佐々井秀嶺師と共に

 

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99年の始め、日本寺にわざわざ会いに来てくれた。佐々井秀嶺師はちょっとぽっちゃりされた。


インド国民車アンバサダー


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ハウラー駅の客待ちアンバサダータクシー。

かつてインドはこれしか走っていなかったアンバサダー。正確にはムンバイ方面はPAT「ピアット」というもう少し小型の車がプラスされる。今やデリーではほとんど見ることはない。カルカッタにあるヒンドゥスタンモータースの作るこの車。地元カルカッタではまだまだ現役。インド国民車なのでかつては大統領もこれに乗って公務をこなすが、その前後の護衛車がベンツだったという笑い話?もある。ほぼ半世紀まったくモデルチェンジのない化石のような車だが、逆に部品もこの車のものしか必要いのでどこに行こうが部品供給はしっかりしていた。ただインドらしく純正部品のコピーやそのまたコピーの部品まであり気をつけて買わなければならない。

実はこの車に駐在帰国後、日本で数年間乗っていた。乗っていた仕様はエンジンはいすゞの1500ccガソリンエンジンのライセンス生産。日本国内で50台近く走っていると聞いたことがある。さてこの車、サスペンションのブッシュのへたり方と各部品のねじのゆるみが尋常でなく車検毎まし締めしてお茶を濁した。今のようにコンピュータなど全くない車なので修理屋の初老のおじさんは懐かしい懐かしいと目を輝かして直してくれた。

日本の川崎にディーラーがあって現在も販売中。HPもあるのでご参照を。

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古いタイプのアンバサダーの廃車。カルカッタにて

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人力車とアンバサダー。カルカッタ

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通常のアンバサダーのお顔

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最新のアンバサダー。顔だけすこし今風。

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日本にて。部品調達が大変だった


レムジュース、レムジュース!


インドで必ず観光客が心を痛めるには、「物乞い」であろう。あげるべきかあげないべきか。本当の田舎では見ることはないが観光地や都市では何人もの彼らからの要求に胃を痛めることになる。

いろんな意見がある。あげれば癖になって働かなくなるとか、その行為自体が仕事になっており中に実入りがよいという理由ではわざと障害者にされて街角に立たされるケースは映画「スラムドック$ミリオネア」でも描かれている。

駐在したての頃かなり戸惑った。大塔にお参りに行けば「レムジュース!レムジュース!」子供たちは声を上げて手を差し伸べる。「あめ玉くれ」と言っているらしい。そのうち観光客でないことがわかってほとんど相手にされなくなったが。しかしあげる方も考えてあげないと、大人数が押し寄せてパニックになったり、もらった人がもらってない人にやっかまれたりとかあげる方も気を使わなければならないことがわかって来た。

私はこれに関して2つの感動したことがある。高知県仏教青年会で団体参拝したおりたくさんの子供の彼らが来たのを見て、いつもは全く目立たないインドは初めてで、このように集られるのも初めてのお坊さんがとっさに近くの菓子屋からたくさんのビスケットを買って来て全員に配り始めるのを見たときだ。お金でなく子供の喜ぶビスケットを整列させ一枚一枚手渡しされた。その場にいた会員はすぐさま彼の行為を賞賛しながら手伝った。子供たちは不平も言わず喜んで手を振って分かれた。

もう一つは駐在僧の先輩が彼らの中にもしかしたら菩薩の化身がいるかもしれないその供養のために時折、この人だ!というときあげるのだと。私は今でもこれを実践している。

世の中安穏なれ

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前正覚山にて