先日 京都御所に入ってきました。実は前から研究中なのですが、弘願寺にはこのような同じ菊紋が釘隠しなどに多用されてます。
弘願寺の開山されたお坊さんは岡山の児島城の小島氏と弘願寺文書には書かれおり、初代墓も小島氏の流れであることが書かれています。この方は太平記の児島高徳の皇族系の直系であることは数ある歴史書には書かれています。
通常江戸時代勝手にこのような紋を使うことは禁じられており、死罪になるような重罪です。が本堂正面にまで菊紋があります。通常は本願寺紋の下がり藤か弘願寺の場合は鬼瓦にある山内家の土佐三つ葉柏のいずれかとなるところでしょう。
興味深いのは阿弥陀様のおられる宮殿や本堂内の釘隠しにしか見られず、左右の親鸞様や蓮如様の厨子には使われていません。
実はこの厨子は本堂が建てられた当時ものものではなく後になって追加されたと聞いています。つまりお寺を建てた最初の部分のみにこの菊紋が使われています。
13世の私の祖父である大海法師は父の願海法師が少年期に亡くなっており、弘願寺の歴史がこの時、詳しく伝わっていません。微かな口伝や弘願寺文書や墓と一般の歴史書から調べる方法しかありません。
山内一豊の子供(養子)が弘願寺を定宿にしている点も通常の一般の浄土真宗末寺では少々考えにくいとも思われます。大型の土佐山内家紋鬼瓦を弘願寺に与えたのも不思議な点です。
何か弘願寺には鬼瓦といい定宿にできる理由もがあったと思われます。

研究中ですが弘願寺の歴史には奥深いものがありそうです。