弘願寺開祖について
何度が調べに行こうと試みましたがやっと行けて謎が解けて安心しました。
またお寺周辺は児島家の荘園のような場所で児島高家の子供も「土佐守」として役職を与えられています。もともと縁がなければいきなり住むことは時代が時代だけに無理があります。
また春野周辺の小島家は各家の過去帳などからこの流れをくんでいると思われます。
山号軸 志静禅師
釈志静禅師 (徹翁)
1784年~1854年
文人 常行寺住職
芸術センスにあふれた文人住職
天明4年、越後国(新潟県)に生まれる。幼い悪露に郷里の寺に入り、後に信濃国(長野県)の松代越下長岡寺の跡をつぐことになった。そして文化の末、土佐に来て安田町法禅寺の住職になり、荒れ果てていた同寺を檀家の援助を受け復興させました。また、藩主が大法要を営んだ時に述べた仏法の考えが認められ高知城下江ノ口瑞応寺の住持にもなっています。
多種多芸の文人で交友も広く、岡本寧浦、髙松順蔵、髙松濤亭、斉藤梅外、豊永弥三郎らと親交をもった。その人となりは穏やかでさっぱりしており、質素を好み、悟りの道にも深かったようです。また、詩文、俳諧、茶道、書道にも造詣が深く、尺八の名手でもあり、絵画や造園までも手掛けるほど芸術的な才能にあふれていました。
天保5年には真如寺に移り、老後は安田少林山常行寺の住職として余生を送りました。