高知新聞掲載

11月16日高知新聞に弘願寺の鬼瓦が掲載されました
弘願寺のある西畑の特集記事の一部への掲載です。
西畑のラジコン飛行場記事が大半です。また2000年に西畑の河原でハーレーダビットソンの全国集会もありました。
会場の河原に見に行きましたが、なんと深夜ダムの放水で何百の改造ハーレーが避難したときの爆音は好きな人には感動ものでした。

報恩講法要

11月11、12日と報恩講法要を実施しました
講師は大阪、清岡隆文師です。35年間もお願い致しております。
今年得度しました長女も出勤しました
沢山のお参りありがたいことです
法要の昼食は浄土真宗伝統食 いとく煮、高知でいう、おぶつじの御斎でした。

いとく煮、浄土真宗は報恩講中は精進です。

10月常例 門徒報恩講

10月19日20日は門徒報恩講でした。
講師は福山市 那須智雄師でした。
法座の後には御斎をいただきます。
婦人会が前日からおいとこ煮、お寿司など作ります。
たくさんできました。
法話後いただきます。
おいとこ煮は浄土真宗では必ずたべられる報恩講の宗教食です。
おぶつじなどとも言います。

弘願寺開祖について

弘願寺開祖については土佐藩、明治時代に知事に提出した「弘願寺文書」や墓石、口伝からしか明らかな資料はなく「岡山の児島城の城主でこの地に来た、小島高行の子高治が開祖である」までしか分からずそれ以前の本当に児島城に関係あるのかが不確かでした。この度、児島市図書館に行き調べた結果「太平記」で有名な児島城城主、児島高徳の孫に小島高家と小島(児島)高行が実際におり弘願寺文書の通り開祖は児島城の城主兄弟ということがわかりました。

何度が調べに行こうと試みましたがやっと行けて謎が解けて安心しました。

またお寺周辺は児島家の荘園のような場所で児島高家の子供も「土佐守」として役職を与えられています。もともと縁がなければいきなり住むことは時代が時代だけに無理があります。

また春野周辺の小島家は各家の過去帳などからこの流れをくんでいると思われます。

永代経法要がおこなわれました

9月9日10日と弘願寺永代経法要が行われました。
講師は香川の片山英道師です。

婦人会の皆様には御斎接待の準備をしていただきました。
10日昼の御斎です
新米、おでん、酢のものなどです。
8月にお坊さんになった長女が初出勤です。
毎回たくさんのお参りありがとうございます

おみがき

9月3日は年に一度の「おみがき」です。平たくいえば大掃除です
浄土真宗は門徒で作り上げた寺です。
ですので仏具も門徒といっしょに年に一度磨き上げます。
他の宗派にはない浄土真宗の特徴といえます。
9.10日に迎える「永代経法要」のために行います。

毎年25名ほどの方が来ていただきます。
男性は主に外回りの木の剪定などしていただいています。
毎年ありがとうございます

盆会

8月19日 盆会です 講師は福山市 枝廣大智師でした。


山号軸 志静禅師

弘願寺の山号は「光暁山」こうぎょうざんですが、本堂前に達筆の山号軸があります。
さて誰が書いたのでしょう
改めて研究してみましたので発表します
それは志静禅師といいます
弘願寺11世住職は山内家と縁があったため当時お城に出入りが自由であり文化人を交流があり禅師とも交流がありました為。書いていただいたものです。
この流れから11世住職は安芸市の城内御用医師 手島家からお嫁に来ています。 
縁とは不思議なもので通常にお坊さんは同宗派としか交流がないことが多いですが、歴代弘願寺住職は宗派を超えて付き合いが深くあります。


釈志静禅師 (徹翁)

1784年~1854年
文人 常行寺住職

芸術センスにあふれた文人住職

天明4年、越後国(新潟県)に生まれる。幼い悪露に郷里の寺に入り、後に信濃国(長野県)の松代越下長岡寺の跡をつぐことになった。そして文化の末、土佐に来て安田町法禅寺の住職になり、荒れ果てていた同寺を檀家の援助を受け復興させました。また、藩主が大法要を営んだ時に述べた仏法の考えが認められ高知城下江ノ口瑞応寺の住持にもなっています。 

多種多芸の文人で交友も広く、岡本寧浦、髙松順蔵、髙松濤亭、斉藤梅外、豊永弥三郎らと親交をもった。その人となりは穏やかでさっぱりしており、質素を好み、悟りの道にも深かったようです。また、詩文、俳諧、茶道、書道にも造詣が深く、尺八の名手でもあり、絵画や造園までも手掛けるほど芸術的な才能にあふれていました。

天保5年には真如寺に移り、老後は安田少林山常行寺の住職として余生を送りました。

7月常例布教

7月19日20日は常例布教でした。
講師は7年ぶり兵庫県 網干善一郎師でした。
ありがたいお話ありがとうございました。

裏山工事その後

裏山の工事も今年度に入り引き続き行われています
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