山号軸 志静禅師

さて誰が書いたのでしょう
改めて研究してみましたので発表します

弘願寺11世住職は山内家と縁があったため当時お城に出入りが自由であり、場内に集まる文化人を交流があり禅師とも交流がありました為。書いていただいたものです。
この流れのご縁から11世住職には安芸市の高知城内御用医師 手島家からお嫁が来ています。弘願寺山門はこの手島家から持ってきました。
手島家とは安芸市の高知城城主山内家の医師などを輩出する名家です。有名な方に書家で極めて有名な下記の方がおり現在も鎌倉に美術館があります。
手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年〈明治34年〉11月3日 – 1987年〈昭和62年〉3月27日)は、日本の書家、文化功労者。高知県安芸町(現安芸市)出身[1]。本名・南海巍(なみき)[1]。ニックネームは「ライオンの右卿」
縁とは不思議なもので通常にお坊さんは同宗派としか交流がないことが多いですが、歴代弘願寺住職は宗派を超えて付き合いが深くあります。
釈志静禅師 (徹翁)
1784年~1854年
文人 常行寺住職
芸術センスにあふれた文人住職
天明4年、越後国(新潟県)に生まれる。幼い悪露に郷里の寺に入り、後に信濃国(長野県)の松代越下長岡寺の跡をつぐことになった。そして文化の末、土佐に来て安田町法禅寺の住職になり、荒れ果てていた同寺を檀家の援助を受け復興させました。また、藩主が大法要を営んだ時に述べた仏法の考えが認められ高知城下江ノ口瑞応寺の住持にもなっています。
多種多芸の文人で交友も広く、岡本寧浦、髙松順蔵、髙松濤亭、斉藤梅外、豊永弥三郎らと親交をもった。その人となりは穏やかでさっぱりしており、質素を好み、悟りの道にも深かったようです。また、詩文、俳諧、茶道、書道にも造詣が深く、尺八の名手でもあり、絵画や造園までも手掛けるほど芸術的な才能にあふれていました。
天保5年には真如寺に移り、老後は安田少林山常行寺の住職として余生を送りました。



